ある日突然、ごっそりと髪が抜け落ちる。あるいは、やめたいのに自分の髪を抜く行為が止められない。髪は「女の命」とも言われるように、人の外見の印象を大きく左右する部分です。その髪を失う恐怖や、思い通りにならない自分への苛立ちは、経験した人でなければ分からない、深く辛い悩みでしょう。
脱毛症と聞くと、多くの方は皮膚科を思い浮かべるかもしれません。しかし、その発症や経過に「心」の問題、特にストレスが深く関わっているケースは非常に多いのです。この記事では、脱毛と心の知られざる関係を解き明かし、あなたが抱える悩みの正体と、回復への道を精神科医の視点から徹底的に解説します。
1. 精神科で扱う脱毛症の種類
脱毛症は、単一の病気ではありません。様々な種類があり、その原因も多岐にわたります。その中でも、特に心の問題との関連が深く、精神科や心療内科でのケアが重要となる代表的な脱毛症が二つあります。それは「円形脱毛症」と「抜毛症(ばつもうしょう)」です。
- 円形脱毛症とストレスの関係
円形脱毛症は、コインのような形の脱毛斑が突然現れる病気です。これは、本人の免疫細胞が誤って自分自身の毛根を攻撃してしまう「自己免疫疾患」の一種と考えられています。しかし、その発症の引き金として、精神的なストレスが大きく関与することは、臨床現場で頻繁に経験するところです。
過剰なストレスは、自律神経やホルモンバランスを乱し、免疫システムの正常な働きを狂わせる可能性があります。その結果、毛根への攻撃が始まってしまうのです。仕事のプレッシャー、人間関係の悩み、大切な人との別れなど、強い心理的負荷がかかった後に発症するケースは後を絶ちません。
- 抜毛症(トリコチロマニア)の苦しみ
一方、抜毛症は、自分の毛髪(眉毛やまつ毛なども含む)を自分で引き抜いてしまう行為がやめられない病気です。これは「衝動制御障害」という心の病気に分類されます。決して「癖」や「意志の弱さ」の問題ではありません。
多くの場合、強い不安や緊張を感じた時、あるいは逆に手持ち無沙汰で退屈な時に、無意識のうちに髪に手が伸び、引き抜いてしまいます。抜いた瞬間は、一時的に緊張が和らいだり、奇妙な満足感を得たりします。しかし、その直後には「またやってしまった」という強い後悔と自己嫌悪、そして脱毛斑ができてしまったことへの絶望感が襲ってくるのです。この苦しい悪循環から、自力で抜け出すのは非常に困難となります。
2. 脱毛と心の負のスパイラル
脱毛と心の問題は、単純な原因と結果の関係ではありません。両者は互いに影響し合い、一度始まると抜け出しにくい「負のスパイラル」を形成します。この悪循環のメカニズムを理解することが、回復への第一歩となります。
まず、「ストレスが脱毛を引き起こす」という流れがあります。
先ほど述べたように、精神的なストレスは自律神経やホルモン、免疫系に異常をきたします。また、交感神経が優位になることで血管が収縮し、頭皮の血行が悪化することも考えられるでしょう。これにより、髪の毛の成長サイクルが乱れ、健康な髪が育たなくなったり、抜け落ちてしまったりするのです。
次に、より深刻なのが「脱毛がさらなるストレスを生む」という逆の流れです。
髪が抜けるという事実は、ご本人にとって大きなショックです。鏡を見るたびに落ち込み、他人の視線が気になって外出が怖くなります。ウィッグや帽子で隠す日々が続き、「このまま全部なくなってしまうのではないか」という恐怖に苛まれることもあるでしょう。こうした外見の変化への不安や将来への絶望感は、新たな、そして非常に強力なストレス源となります。
この新しいストレスが、さらに脱毛症状を悪化させる。そして、悪化した症状がまた心を追い詰めていく。この終わりのない悪循環こそが、脱毛症の治療を難しくしている最大の要因なのです。だからこそ、頭皮のケアと同時に、心のケアが不可欠となります。
3. 精神科でのアプローチと治療法
「髪の悩みで精神科に行くなんて」とためらう方がいるかもしれません。しかし、この負のスパイラルを断ち切るためには、専門家のサポートが非常に有効です。精神科では、身体と心の両面からあなたを支えます。
- 皮膚科との連携を基本に
まず大前提として、脱毛症の診断と身体的な治療は皮膚科が専門です。自己判断せず、まずは皮膚科を受診し、正確な診断と適切な治療(ステロイド外用薬など)を受けることが重要になります。その上で、精神科では、皮膚科と連携を取りながら、心のケアという側面からアプローチを行っていくのです。
⑵精神科で行う治療法
* カウンセリングを通じたストレスケア
治療の中心は、カウンセリングです。あなたを苦しめているストレスの正体は何かを一緒に探り、その対処法(ストレスコーピング)を身につけていきます。抜毛症に対しては、「ハビット・リバーサル法」という認知行動療法の一種が有効です。これは、髪を抜きたくなる状況や前兆に気づき、抜く代わりとなる別の行動(手を握る、ストレスボールを握るなど)に置き換える練習をします。
* 薬物療法による心の負担の軽減
脱毛によるストレスから、不眠や気分の落ち込み、強い不安などが続いている場合には、お薬の力を借りることもあります。抗不安薬や抗うつ薬を用いることで、まずは心の負担を和らげ、落ち着いた状態でカウンセリングに取り組めるようにサポートします。
* 自分を責めないための心理教育
脱毛症、特に抜毛症の方は、自分を責める気持ちが非常に強い傾向があります。治療の過程では、それが病気の症状であり、あなたのせいではないことを繰り返しお伝えします。自分を許し、受け入れることが、回復への大切な一歩となるでしょう。
4. 一人で悩まず専門家を頼って
髪の悩みは、他人に相談しにくく、一人で抱え込んでしまいがちな、非常にデリケートな問題です。しかし、それは決してあなたの心が弱いからでも、意志が足りないからでもありません。心と体が発している、見過ごしてはならないSOSのサインなのです。
そのサインに気づいた今、勇気を出して専門家を頼ってみませんか。皮膚科での治療と、精神科での心のケアは、車の両輪のようなものです。両方からアプローチすることで、これまで断ち切れなかった負のスパイラルから抜け出し、本当の意味での回復を目指すことができます。
髪の問題をきっかけに、ご自身の心と向き合うこと。それは、これから先の人生を、より健やかに、あなたらしく生きていくための大切な転機になるかもしれません。私たちはいつでも、あなたのその一歩を全力でサポートします。
※公開/更新日: 2025年8月19日 13:30

